常陸国を旅するチャンネル
常陸国の歴史(少し詳しい解説4)
このページでは、少し詳しい解説(INDEX)に記載した書籍等を基本情報として、現地で得た情報を加えて作成しています。しかしながら、歴史に対する見方、考え方は、数多くあり、日々変化します。このことを理解し、歴史学習の参考としてください。
最終更新 令和6年(2024年)5月18日
【幕間2】常陸国の寺院の歴史について
★忙しい方は、次のページに進んでください。
このページでは、先述の神社(神道)に続いて、常陸国における寺院(仏教)の歴史について触れていきたいと思います。そもそも、日本の仏教は、欽明天皇(きんめいてんのう)の時代(在位:宣化天皇4年~欽明天皇32年、539年~571年)に伝来した(552年説と538年説があります。)と言われており、先述の7つの大社になぞらえるならば、吉田神社(よしだじんじゃ)の創建後から静神社(しずじんじゃ)の創建前までの間に伝来したということになります。その後、神仏習合(しんぶつしゅうごう)思想によって、各神社には、神宮寺(じんぐうじ)と呼ばれる神社に付属した仏教寺院や仏堂などが建立されていきました。そして、仏教は、政治的に利用されながら、又、数多くの宗派を生み出しながら、全国に浸透していきました。
しかし、仏教は、江戸時代末期から明治時代初期にかけて、否定されることとなります。常陸国一之宮・鹿島神宮(かしまじんぐう)の歴史が記されている鹿島町史には「鹿島の宮中に於て最も古い寺と云われるのは、推古天皇の御代に聖徳太子の創立と称される根本寺と、天平勝宝年間に創立された神宮寺だろう。(中略)仏教を積極的に受入れて、神仏を混淆し、神宮の境内に神社を建て、神前に読経するようになった。こうして出来たのが神宮院・神願寺・神護寺・神供寺・宮寺などとも呼ばれる神宮寺である。(中略)鹿島神宮に於ても、天平勝宝年間に神宮寺が建てられ、更に、護国院・広徳寺・正等寺・五台院等の神宮所属の寺が建てられ、夫々、盛衰変遷があったが、神宮関係の寺で現存するのは、護国院のみとなり、他は何れも幕末の騒乱に廃寺となった。」との記載があり、寺院の否定を確認することができます。

写真-38 根本寺
(現・茨城県鹿嶋市宮中地内)

写真-39 護国院
(現・茨城県鹿嶋市宮中地内)
明治新政府は、明治元年(1868年)に、神仏判然令(しんぶつはんぜんれい)を布告し、これまでの神仏習合を否定してしまいました。このことは、廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)運動を誘発し、多くの寺院に大きな影響を与えることとなります。江戸時代末期に発展した水戸学(みとがく)は、廃仏毀釈に影響を与えたとも言われており、特に、水戸徳川家第9代当主・徳川斉昭(とくがわなりあき)は、尊王攘夷思想、水戸学に傾倒するあまり、仏教を弾圧していたとも言われています。ところが、廃仏毀釈運動は、当時の様々な社会的・政治的理由によって、明治時代初期のうちに収束を迎えることとなり、このことにより、貴重な文化遺産が守られる結果となりました。
常陸国二ノ宮の静神社、常陸国第三宮の吉田神社にも、それぞれ神宮寺があり、おおむね徒歩20分の位置に、静神社は弘願寺(こうがんじ)、吉田神社は薬王院(やこういん)が建立されています。静神社の神宮寺である弘願寺にあっては、徳川光圀(とくがわみつくに)の命令によって、静神社の隣接地から現在の場所(JR水郡線・静駅の近く)に移転されたこと、文政6年(1823年)に火災にあったこと、その後、廃寺になったことなどの歴史を持っているほか、花の寺として知られています。一方、吉田神社の神宮寺である薬王院にあっては、その本堂が国指定重要文化財になっているほか、仁王門(におうもん)・本尊薬師如来(ほんぞんやくしにょらい)・木造十二神将(もくぞうじゅうにしんしょう)が県指定文化財になっています。薬王院の公式ホームページを見てみると「度々の戦乱や中世末の佐竹氏による真言宗への改宗、幕末の斉昭による海岸防御の為の濡仏、撞鐘などの差出し、および明治13年の大火によって鎌倉時代からの薬王院文書その他多くの文化遺産を失っており」との記載があり、守られた文化遺産があった一方で失った文化遺産もあったようです。


写真-40 弘願寺
(現・茨城県那珂市下大賀地内)

写真-41 薬王院
(現・茨城県水戸市元吉田町地内)
鹿島神宮、静神社、吉田神社の次は、石岡市の寺院について注目してみたいと思います。かつて、常陸国の国府であった石岡市には、鉄道駅から徒歩30分圏内(以下「石岡地区」と言うことにします。)に、多くの古刹(こさつ。古い寺院のこと。)が現存していて、常陸国総社宮(ひたちのくにそうじゃぐう)や国府跡などを含め、常陸国の歴史を感じ取ることができるエリアとなっています。石岡市史には、次のように記載されています。
-以下、石岡市史から転記-
第六章 寺院
新編常陸国史によると石岡市内の寺院の数は約八十位あったらしいが、現在住職のいる寺院は僅か十五である。これらは明治初期の排仏棄釈運動や本山の末寺統合策や又経済的基盤の弱体により廃寺となり、現今その跡さえも明かでないものが多い。これらの廃寺を大別すると千手院系統(真言宗) と 東耀寺系統(天台宗)に分かれる。その政治的系譜は天台宗が大掾氏で真言宗は藤原氏といわれているが、区別することは困難である。
佐竹氏の侵入により天台宗派の寺院が曹洞宗に改められたのは、平福寺である。
鎌倉仏教の浄土宗、浄土真宗、時宗等が市内に一つずつ存在し、日蓮宗が明治初期に建されたことは、国府たるの象徴であろう。
―――
つまり、常陸国の国府であった石岡市においても、廃仏毀釈運動があったこと、多くの寺院が失われたこと、そして、大掾(だいじょう)氏、藤原(ふじわら)氏、佐竹(さたけ)氏といった武家と寺院(仏教)の間には関係性があることを読み取ることができます。多くの寺院が失われてしまったとは言え、石岡地区は、常陸国の歴史を感じ取れるエリアとなっています。このページでは、石岡市史に掲載されている石岡地区の寺院の中から、ぜひ訪れたい5つの寺院を紹介させていただきます。
(石岡市の寺院1)国分寺
はじめに国分寺(こくぶんじ)です。石岡市史を見てみると、真言宗智山派(しんごんしゅうちさんは)の寺院であること、弘仁2年(818年)に創建されたこと等を確認することができます。その考察として「浄瑠璃山東方院国分寺は、大正八年(1919年)五月、菩薩山千手院来高寺を合併して成立した寺である。(中略)そして、「今は千手院の末寺也」とも記されているが、その源流は奈良時代の常陸国分寺にまでさかのぼりうる寺である。」との解説があり、天慶2年(939年)の平将門の乱(承平天慶の乱)のとき、常陸国分寺は消失し、その後再建されたとの解説もあります。「常陸国分寺跡」として国の重要文化財になっているほか、常陸国の歴史を学ぶ上で、重要な寺院のひとつとなっています。


写真-42 国分寺
(現・茨城県石岡市府中地内)
